かのくらかの

かのくらかのが送るかのくらかの。と言われたい。娯楽感想日記。

ネタバレを含みます。

中島敦 李陵 感想

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再読。中島敦すきすき。

時代背景の知識を知らなくても面白いです。実話ベースっぽいですが、知識無しでも大丈夫。文字数もそんなに多くないです。
単于が襲名制というか~~単于という称号だというのが初読ではしばらく「単于」としかでないので気づかなかった覚えが。

最初は少しとっつきにくいかな?いきなり出兵からの撤退戦なので、どんな話なんだろう?ってところが飲み込めなくて。
でも李陵の兵に慕われるその武名に恥じない行動にだんだん惹かれていきます。

そして場面転換して結構唐突に司馬遷の話になるんですよね。
武帝に阿る佞臣に対してさして友誼もない李陵の件について正論を述べる司馬遷
かーらーのまさかの宮刑
刑を執行され一人考え込む司馬遷のこの身から一切噴き出ることの無い煩悶。やり場の無い怒り。
人が出来ているゆえに正当な怨恨先を求めるものも終ぞ矛先定まらぬぐぬぬ
まさにぐぬぬ

あれ?主人公って司馬遷だったかな?ってなります。
結局彼は使命と形容してよいかもわからぬ何かに突き動かされ史記の執筆にのみ命を捧げることになります。
こう、かっこいい、とも違うしその境遇から憧れとも違うのですが、「凄み」がある。あ、ジョジョ5部アニメおめでとうございます。

それでまた戻って、捕らえられたものの単于に遇される李陵の話になります。
最初は国のために暗殺を目論見るものの、国の酷い仕打ちや単于たち匈奴と接するうちにだんだんと匈奴側についていって…という話。
ある意味王道ですかね。こっから祖国に響いた武名をもって匈奴の兵を率いて復讐。とか嫌いな展開じゃないんですけれど。
李陵はあくまで節度と忠を知る人物として描かれていて、読んでいて良い男だと思えるほどですね。忠君の士。
匈奴に決定的に寝返るのも国で家族を殺されたからですし、読者としてはもう裏切っても文句は言わないよ!ってほどでした。

が、ここで終わらないのが中島敦。って歴史小説なので違いますが。

第三の主人公、蘇武の登場です。
彼も匈奴に捕らえられるも、自決を行い、一命を取り留めさせられ、僻地へ無期限の追放をさせられても忠義を違えず心は漢の官であり続けました。漢の中の漢やで。

李陵は匈奴に降るように説得に行った際、なんともいえない気持ちにさいなまれます。

 最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、己の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人、自分は売国奴と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、日にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子にひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍の色を、豪奢な貂裘をまとうた右校王李陵はなによりも恐れた。
 十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然と南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎に残してきた。
 李陵は単于からの依嘱たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。蘇武の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱めるには当たらないと思ったからである。
 南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳えているように思われる。
 李陵自身、匈奴への降服という己の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
 飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
 蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を遣わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈を贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。

そうです。李陵の降伏は本当に「やむを得ない」と読者に思わせるのに十分な境遇からくるものでした。
そんな境遇なのに、それをも超える苦境に立っても折れない蘇武の存在。
蘇武への李陵の気持ちに、すごく共感を呼び起こされました。

蘇武酷い!蘇武なんて居なければ!と言えれば簡単でしたけど…
もうこの煩悶さはまた司馬遷のそれと根底は似ている部分がある気がします。
気持ちのハケどころが見当たらない。

そんな祖国に伝わらぬ忠信を貫き僻地で孤独に死ぬかと思われた蘇武が、何の因果か帰国を果たすことが出来たわけです。
蘇武大号泣。

そんな蘇武を見て李陵は…

李陵の心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼れた。今でも、己の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。胸をかきむしられるような女々しい己の気持が羨望ではないかと、李陵は極度に惧れた。

李陵にさしたる瑕疵があるわけでもないのに、うおおおおおと言う気分に。
筆舌しがたいので引用するしかあるまいでした。


複雑な気持ちになって面白い。

こう、中島敦の小説は、主人公は高潔じゃないですけど志はあるもののちょっとだけ折れる感じがします。
山月記はプライドが高かったものの一旦筆を置くほどには妻子を考えていましたし、虎に成り果てた後の対話からもなんだか物悲しい振り返りがありましたが、詩業に打ち込む心はままあったわけで。
名人伝の紀昌は師匠の変な修行をマジメに取り組むなるほど志がある男でしたが、魔が差し文字通り師に弓引いてしまいます。
それでも紀昌は弓に真摯だったわけで。
沙悟浄も一見哲学者に見えて俗っぽい部分があるキャラクターです。

李陵も悪人ではなく、全うな理由とはいえ志を違え、またそれ自体を恥じ入ることも出来る人間です。
ただ、蘇武が居なければそこまで居心地悪い気分になる内省はしないかな?って感じの人間にみえました。

そういった多面性というか、一本道を歩こうとして絶妙に躓く主人公たちが中島小説の魅力なのかなあと思ったりします。