かのくらかの

かのくらかのが送るかのくらかの。と言われたい。娯楽感想日記。

吾輩は猫である 感想

吾輩は猫である。名前はまだな

っっっっっっっっっっっがい!!!!!!!!!

長い長い!
下調べしなかったのも悪いけれど!
一作品で約3冊分とは知らなんだ!

吾輩は猫である - Wikipedia

ページ数 上290、中238、下218

道理で読んでも読んでも終わらないわけだ…。
物理的に厚みが無いテキストデータの盲点でした。

図書カード:吾輩は猫である

いや、吾輩は猫であるって有名だし、題材的に一発ネタの短編~中編という先入観がありました。
事実、猫分量で言えばこれ当たってるんですけれど…。ちょっと漱石先生に怒り抱いたよ?ちょっとね。

草枕がどーしても読み進められなかったからジャンル変えてみたら結局夏目先生に収束した感。

流れ(想像)

  1. 吾輩は猫である
  2. 好評
  3. 続き書いて
  4. じゃあ先生は苦沙弥としとこう
  5. 猫「応援ありがとう!」
  6. でも連載化考えてなかったし、人間の話を猫が見ていることにしよう。
  7. もう人間の話でいいよね。
  8. もう終わらそう。どうしよう。ありがたいありがたい。

そんな感じです。
この作品、名前だけは知っている人も多そうなあのホトトギスの掲載作品なんですねー。しかも処女作。

変遷

で、各章が連載ということで、一章は作品としてまとまっていると思うんです。
それから連載することになったのか?急に先生に名前が付きだして、吾輩が読者を意識するメタがぶちこまれます。

それからは先生の周りを中心にして、金田家の色恋沙汰、先生と落雲館の生徒たちの闘争、そして作中でつまらないと言われながらも延々続けられるバイオリン物語!!

金田家まではまだ猫として潜入することで金田家の内部事情を探偵する2人称として成立していました。
しかし学校編からはもう先生を主人公とした狭い範囲での3人称視点となりましたね。

猫である。必要は。

確かに猫視点から見た俗世で、人がわざわざもろもろ不自由に生きていることの滑稽さを描いたり、皮肉っていることには大いに成功していると思います。
でも、想像ですけど、その類の属性って漱石先生自体が持っていると(現代の)読者は諒解している気がします。
なので、猫ではなく人に語らせると、人が人を語る滑稽さはありますが、まあまあ普通に受け入れられるんじゃないかな。猫でストンと行っているんだからちとひねりすぎか。

先生の家庭を一歩引いて俯瞰するこの感じは再考すると読んだ記憶がないのでやはりアリなのかな?

でもねー、最低限あきらめないで欲しかったかな。
後半のここは「先生とうとう投げおったか!」と思いましたよ。

 吾輩は猫である。猫の癖にどうして主人の心中をかく精密に記述し得るかと疑うものがあるかも知れんが、このくらいな事は猫にとって何でもない。吾輩はこれで読心術を心得ている。いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい。ともかくも心得ている。人間の膝の上へ乗って眠っているうちに、吾輩は吾輩の柔かな毛衣をそっと人間の腹にこすり付ける。すると一道の電気が起って彼の腹の中のいきさつが手にとるように吾輩の心眼に映ずる。せんだってなどは主人がやさしく吾輩の頭を撫で廻しながら、突然この猫の皮を剥いでちゃんちゃんにしたらさぞあたたかでよかろうと飛んでもない了見をむらむらと起したのを即座に気取って覚えずひやっとした事さえある。怖い事だ。当夜主人の頭のなかに起った以上の思想もそんな訳合で幸にも諸君にご報道する事が出来るように相成ったのは吾輩の大に栄誉とするところである。

読心術!!
毛で腹をこするだけで腹のうちがわかってしまう!!
いつ心得たなんて、そんな余計な事は聞かんでもいい!!
なんだろ、9章の終わりに来てもうノリで無視しきってもいい事柄を強引に都合つけたこの仕打ちに大いに感に入ってしまいました。愛すべき吾輩と漱石先生よ。

時代、面白い

なんだかんだ言って明治時代の小説です。漱石先生苦沙弥先生ともに一般的とは言いがたいでしょうが、世俗の事柄を垣間見れることは面白かったですね。
海外知識もふんわり入り込むのもまた一興。
このあたりは文明開化で和洋が折衷していて面白いです。…夏目漱石周辺以外の古い本読みませんけど。

子供の扱い、気になる

苦沙弥先生には三人の娘が居る設定ですけれど、扱いがぞんざい、に描かれていて、この時代の夫なんてそんなものかと思ったんですけど、夏目漱石が年頃の(主人公の)娘を書くとどうなるのかなぁということが気になりました。
その父親がどんな心境になるのやということが気になります。
そんな作品ありますかね?
実娘が居たはずなんで、それ込みで気になりますよね。
まあ発端はこころのあれな娘さんの描写な気がします…。親の気持ちが知りたい。かな?

Help me, めーてい

しっかし全体的に読むのがしんどい。
ラノベ脳には硬さがつらい。
草枕ギブアップからのこちらで想定外な話の流れで、想定外な話の分量で。
でも読めたのは、なにはなくとも迷亭君のおかげですよ。
迷亭君が面白い話を持ってきて、迷亭君がつまらない話を面白おかしく彩り…。
もうね、恋する乙女のようにとは言いませんが、悟空を待望するクリリンのように迷亭君の登場を待ちわびていました。
浴場~落雲館は禁断症状含めて本当に…つらかった…迷亭君来て…。
その後迷亭君を持ってしてもバイオリンはつらかったのですが。
先生が堅物担当、迷亭君が諧謔?担当としっかりと属性が別れていたことが功を成していましたかな?先生がわかったふりをすることがさらにポイントを稼ぐ。

とかくこの小説、全体を通せば、先生を通して迷亭君を楽しむ8割、吾輩を楽しむ2割のそんな小説な気がします。
寒月・東風君らもいいのですが、やはり両先生との絡みによる相乗効果が大きい、大きい。

迷亭君の話はどれも面白いのですが、終盤ということで記憶に残りやすい未来記の話を引用。

「そう云う知己が出てくると是非未来記の続きが述べたくなるね。独仙君の御説のごとく今の世に御上の御威光を笠にきたり、竹槍の二三百本を恃にして無理を押し通そうとするのは、ちょうどカゴへ乗って何でも蚊でも汽車と競争しようとあせる、時代後れの頑物――まあわからずやの張本、烏金の長範先生くらいのものだから、黙って御手際を拝見していればいいが――僕の未来記はそんな当座間に合せの小問題じゃない。人間全体の運命に関する社会的現象だからね。つらつら目下文明の傾向を達観して、遠き将来の趨勢を卜すると結婚が不可能の事になる。驚ろくなかれ、結婚の不可能。訳はこうさ。前申す通り今の世は個性中心の世である。一家を主人が代表し、一郡を代官が代表し、一国を領主が代表した時分には、代表者以外の人間には人格はまるでなかった。あっても認められなかった。それががらりと変ると、あらゆる生存者がことごとく個性を主張し出して、だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中で喧嘩を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、滅多に人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。強くなるのは嬉しいが、弱くなるのは誰もありがたくないから、人から一毫も犯されまいと、強い点をあくまで固守すると同時に、せめて半毛でも人を侵してやろうと、弱いところは無理にも拡げたくなる。こうなると人と人の間に空間がなくなって、生きてるのが窮屈になる。出来るだけ自分を張りつめて、はち切れるばかりにふくれ返って苦しがって生存している。苦しいから色々の方法で個人と個人との間に余裕を求める。かくのごとく人間が自業自得で苦しんで、その苦し紛れに案出した第一の方案は親子別居の制さ。日本でも山の中へ這入って見給え。一家一門ことごとく一軒のうちにごろごろしている。主張すべき個性もなく、あっても主張しないから、あれで済むのだが文明の民はたとい親子の間でもお互に我儘を張れるだけ張らなければ損になるから勢い両者の安全を保持するためには別居しなければならない。欧洲は文明が進んでいるから日本より早くこの制度が行われている。たまたま親子同居するものがあっても、息子がおやじから利息のつく金を借りたり、他人のように下宿料を払ったりする。親が息子の個性を認めてこれに尊敬を払えばこそ、こんな美風が成立するのだ。この風は早晩日本へも是非輸入しなければならん。親類はとくに離れ、親子は今日に離れて、やっと我慢しているようなものの個性の発展と、発展につれてこれに対する尊敬の念は無制限にのびて行くから、まだ離れなくては楽が出来ない。しかし親子兄弟の離れたる今日、もう離れるものはない訳だから、最後の方案として夫婦が分れる事になる。今の人の考ではいっしょにいるから夫婦だと思ってる。それが大きな了見違いさ。いっしょにいるためにはいっしょにいるに充分なるだけ個性が合わなければならないだろう。昔しなら文句はないさ、異体同心とか云って、目には夫婦二人に見えるが、内実は一人前なんだからね。それだから偕老同穴とか号して、死んでも一つ穴の狸に化ける。野蛮なものさ。今はそうは行かないやね。夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻だからね。その妻が女学校で行灯袴を穿いて牢乎たる個性を鍛え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思う通りになる訳がない。また夫の思い通りになるような妻なら妻じゃない人形だからね。賢夫人になればなるほど個性は凄いほど発達する。発達すればするほど夫と合わなくなる。合わなければ自然の勢夫と衝突する。だから賢妻と名がつく以上は朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構な事だが、賢妻を迎えれば迎えるほど双方共苦しみの程度が増してくる。水と油のように夫婦の間には截然たるしきりがあって、それも落ちついて、しきりが水平線を保っていればまだしもだが、水と油が双方から働らきかけるのだから家のなかは大地震のように上がったり下がったりする。ここにおいて夫婦雑居はお互の損だと云う事が次第に人間に分ってくる。……」 「それで夫婦がわかれるんですか。心配だな」と寒月君が云った。 「わかれる。きっとわかれる。天下の夫婦はみんな分れる。今まではいっしょにいたのが夫婦であったが、これからは同棲しているものは夫婦の資格がないように世間から目されてくる」 「すると私なぞは資格のない組へ編入される訳ですね」と寒月君は際どいところでのろけを云った。 「明治の御代に生れて幸さ。僕などは未来記を作るだけあって、頭脳が時勢より一二歩ずつ前へ出ているからちゃんと今から独身でいるんだよ。人は失恋の結果だなどと騒ぐが、近眼者の視るところは実に憐れなほど浅薄なものだ。それはとにかく、未来記の続きを話すとこうさ。その時一人の哲学者が天降って破天荒の真理を唱道する。その説に曰くさ。人間は個性の動物である。個性を滅すれば人間を滅すると同結果に陥る。いやしくも人間の意義を完からしめんためには、いかなる価を払うとも構わないからこの個性を保持すると同時に発達せしめなければならん。かの陋習に縛せられて、いやいやながら結婚を執行するのは人間自然の傾向に反した蛮風であって、個性の発達せざる蒙昧の時代はいざ知らず、文明の今日なおこの弊竇に陥って恬として顧みないのははなはだしき謬見である。開化の高潮度に達せる今代において二個の個性が普通以上に親密の程度をもって連結され得べき理由のあるべきはずがない。この覩易き理由はあるにも関らず無教育の青年男女が一時の劣情に駆られて、漫に合※(「丞/犯のつくり」、第4水準2-3-54)の式を挙ぐるは悖徳没倫のはなはだしき所為である。吾人は人道のため、文明のため、彼等青年男女の個性保護のため、全力を挙げこの蛮風に抵抗せざるべからず……」 「先生私はその説には全然反対です」と東風君はこの時思い切った調子でぴたりと平手で膝頭を叩いた。「私の考では世の中に何が尊いと云って愛と美ほど尊いものはないと思います。吾々を慰藉し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御蔭であります。吾人の情操を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗錬するのは全く両者の御蔭であります。だから吾人はいつの世いずくに生れてもこの二つのものを忘れることが出来ないです。この二つの者が現実世界にあらわれると、愛は夫婦と云う関係になります。美は詩歌、音楽の形式に分れます。それだからいやしくも人類の地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅する事はなかろうと思います」 「なければ結構だが、今哲学者が云った通りちゃんと滅してしまうから仕方がないと、あきらめるさ。なに芸術だ? 芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由と云う意味だろう。個性の自由と云う意味はおれはおれ、人は人と云う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。君がいくら新体詩家だって踏張っても、君の詩を読んで面白いと云うものが一人もなくっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君よりほかに読み手はなくなる訳だろう。鴛鴦歌をいく篇作ったって始まらないやね。幸いに明治の今日に生れたから、天下が挙って愛読するのだろうが……」 「いえそれほどでもありません」 「今でさえそれほどでなければ、人文の発達した未来即ち例の一大哲学者が出て非結婚論を主張する時分には誰もよみ手はなくなるぜ。いや君のだから読まないのじゃない。人々個々おのおの特別の個性をもってるから、人の作った詩文などは一向面白くないのさ。現に今でも英国などではこの傾向がちゃんとあらわれている。現今英国の小説家中でもっとも個性のいちじるしい作品にあらわれた、メレジスを見給え、ジェームスを見給え。読み手は極めて少ないじゃないか。少ない訳さ。あんな作品はあんな個性のある人でなければ読んで面白くないんだから仕方がない。この傾向がだんだん発達して婚姻が不道徳になる時分には芸術も完く滅亡さ。そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる、僕のかいたものは君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」

長くない?著作権切れてセーフか。
この個性の話はなかなか現代にも通じそうで面白いですね。

だれを見ても君は君、僕は僕だよと云わぬばかりの風をするようになる。ふたりの人が途中で逢えばうぬが人間なら、おれも人間だぞと心の中で喧嘩を買いながら行き違う。それだけ個人が強くなった。個人が平等に強くなったから、個人が平等に弱くなった訳になる。人がおのれを害する事が出来にくくなった点において、たしかに自分は強くなったのだが、滅多に人の身の上に手出しがならなくなった点においては、明かに昔より弱くなったんだろう。

LGBTポリティカル・コレクトネスが盛んに叫ばれ、個人主義らしきものが跋扈しうる現在、行く末が気になるものですが、息苦しいものを感じるのも事実です。
日本においては少子化も著しく、人の滅びも近いと見るか。

総評

吾輩は猫である」という小説で見ると、ブレッブレで星2つ。別の本としてわけてどうぞ。
でも夏目漱石のお話と見ると3つかな?
この本の正しい読み方は連載を読むがごとく一章ごとを分けて頭を切り替えて読むなり、好きそうな章のみを読むなりが必要だと感じました。
読み直すなら迷亭君が出るところだけ読みまうす。
そんな感じ。

迷亭君×先生のBLとかいけそう。